国名は、
タジク人の自称民族名То?ик(タージーク、トージーク)と、タジク語で「〜の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(
ペルシア語ではタージークtājīk)の語源は明らかではないが、
中国の
唐が
イスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「
アラブ人」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったとの俗説もあるが根拠はない。タジク語、ペルシア語、ダリー語で、"Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となり、現在タジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。
現在のタジキスタンの領土にあたる地域は古来より、最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、同地域から出た
スピタメネス(タジク語では「スピタメン」、「スピタメネス」はギリシア語風の発音)は服従と裏切りの奇策でアレキサンダー大王などの東征を食い止めるなど、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、逆にパミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立するとともに、山岳地域は被征服民族の“落武者の隠れ里”として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノブ語、シュグナーン語、ルシャン語、ワハーン諸語を話す民族を今日まで存続させるなど、その歴史的・社会的意義は言語の世界に留まらない。
8世紀に
アラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くは
イスラム教を信奉するようになり、
9世紀にはタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主が
サーマーン朝をブハラを首都に王朝を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがて
テュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話す
ムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となり、双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、例えば
タジクという呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かったようである。