後期黎朝時代、黎朝帝室は実権を失い、北ベトナムの
トンキン(東京)地方を支配する鄭氏(鄭王)と、南の広南阮氏(阮主)という二大地方王権が分立し、両者は霊江(ザイン川s?ng Gianh)を国境として対峙していた。この南北両国を、当時の口語史料はスーダンゴアイ X? ??ng Ngo?i/スーダンチョン X? ??ng Trongと呼び、文語史料は北河/南河、
中国や
日本の史料は東京国(交趾国)/広南国と呼ぶ。また、欧文史料はトンキンやコーチシナと呼ぶが、両氏とも公的には大越皇帝(黎帝)の臣下を名乗り、独自の
国号や帝号、年号を持つことはなかった。
広南阮氏が鎮圧に手間取る中、トンキンの鄭氏はこれを好機と見て大挙して南下し、
1774年に首都富春(フースアンPh? Xu?n、今のフエ市キンタイン地域)が陥落し、当主阮福淳(睿宗)は南部に脱出した。阮氏三兄弟(西山(タイソン)阮氏)は鄭氏に降伏し、広南阮氏残党の討伐を行った。
1777年には南部嘉定(ザーディン Gia ??nh、現
ホーチミン市)が陥落し、ほとんどの王族が殺害されて広南阮氏は滅亡した。